罪と罰を読んで

春休みという長い怠惰な時間を利用して、1年ぶりにドストエフスキー作品に挑戦した。「カラマーゾフの兄弟」に引き続き二冊目。その分量と冗長(こんなこと言ったら熱烈なファンや文士の方々に怒られるかもしれないが...)な表現によってかなりの苦戦を強いられたが、なんとか読破することができた。

 

人は10の善行を為すためには1つの悪行を犯しても良いのだろうか... 

これが私がこの本を読んで最初に思った感想であった。主人公ラスコーリニコフは貧困のため大学を退学し、その妹は貧困のため望まぬ結婚を迫られていた。その状況を打開すべくラスコーリニコフは高利貸しの老婆とその妹を殺めてしまう。殺害前は意気揚々と計画を進めていたラスコーリニコフであったが、殺害後は一転、犯行がばれやしないかと気を病み、基地外のような振る舞いをするようになってしまう。そんな時に出会ったソーニャという娼婦のひたむきな犠牲精神に心打たれたラスコーリニコフはついに自分の罪を認め始める...大まかにはこのようなあらすじであった(ネタバレごめんなさい)。

 

この物語は「物語」といっても大いに哲学的思想を孕んだものであった。カラマーゾフの兄弟が人間の欲望をテーマにしていたのに対し、罪と罰は”罪とは何か”ということに主題をおいていた。冒頭にも書いたように、ラスコーリニコフは貧困から脱し、自分の身を立て、妹を救い、母を心労から解放するために老婆を殺めた。果たしてこれは罪になるのだろうか。確かに人を殺めることは罪であろう。だがしかしその人を殺めることによって救われる多くのもの、多くの人が存在するのならば、その犯行は罪だといえるのだろうか。ラスコーリニコフは罪だとは考えていなかったようだ。最後まで、自分の犯した”罪の意識”は関係のなかった老婆の妹を思いがけず殺してしまった事に対するものであった。老婆の殺害に対しては後悔も罪の意識も持っていなかった。

 

ここで私の意見を述べるべきなのであろうが、このような問題を考えた時間はドストエフスキーに対して破滅的に少ない。それゆえ、今は自分の意見を述べることは控えさせていただく。書評というよりむしろ学生の読書感想文であったが、人生初の投稿に対し温かい目で見ていただけたらと思う。

 

 

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

罪と罰〈上〉 (新潮文庫)

 
罪と罰〈下〉 (新潮文庫)

罪と罰〈下〉 (新潮文庫)